フロイトの精神構造モデルでは、人間の精神は、性衝動や攻撃性などの動物的本能である「エス(es)」、個人の理性としての自我「(ego)」、主に親から植え付けられる価値観や道徳観である「超自我(superego)」の3要素からなっており、自我がエスを制御し、さらに超自我がエス及び自我を制御する3者対立構造にあるとされています。
2012年9月12日水曜日
2012年9月10日月曜日
規範意識の形成の土台は?
私はエゴを抑制するものとして規範(意識)という機能あるいは言葉を提起しましたが、他にも共感能力、相手との一体感、プラス視、あるいは相手から期待を感じること、そして期待に応える充足感等の様々な現象と機能があげられるでしょう。そしてそれらが人間の主体の内部に存在することまでは確かでしょう。
ここで考えてみたいのは、言葉以前の不文律としての規範意識は何を土台にしているのかです。
規範意識が人の心の奥底から自ずと湧き上がってくる感情であり、相手のプラス視が人間の相手尊重の最も原点にあるとすれば(これは私の仮説ですが)、それは相手からの期待(を感じる機能と、それに応えることで充足を感じる機能)ではないでしょうか?
ここで考えてみたいのは、言葉以前の不文律としての規範意識は何を土台にしているのかです。
規範意識が人の心の奥底から自ずと湧き上がってくる感情であり、相手のプラス視が人間の相手尊重の最も原点にあるとすれば(これは私の仮説ですが)、それは相手からの期待(を感じる機能と、それに応えることで充足を感じる機能)ではないでしょうか?
2012年9月8日土曜日
「自我=エゴ」を制御するもの
問題の焦点は自我=エゴをどう制御できるかにあります。つまり、どうしたら「各個人が全体の利害を考慮に入れ、全体の欲求と自己の欲求が整合する道を選択」できるようになるかにあります。
また個人主義者も「他人の権利や自由を最大限尊重するのが本来の個人主義」と主張しています。
我々がまず追求しなければならないのは、この相手(の自由や権利)を尊重する、言葉を変えれば人間のエゴを抑制し他人と調和しようとする主体側に深く内在するものは何であるのか?ではないでしょうか?
仮にそれが明快になればその中味に立脚して、個体どうし(混同するので敢えて個人という言葉は使いません)あるいは全体が調和するヒントが得られるように思います。
また個人主義者も「他人の権利や自由を最大限尊重するのが本来の個人主義」と主張しています。
我々がまず追求しなければならないのは、この相手(の自由や権利)を尊重する、言葉を変えれば人間のエゴを抑制し他人と調和しようとする主体側に深く内在するものは何であるのか?ではないでしょうか?
仮にそれが明快になればその中味に立脚して、個体どうし(混同するので敢えて個人という言葉は使いません)あるいは全体が調和するヒントが得られるように思います。
2012年9月6日木曜日
今の若者に伝えたい価値
元個人主義者の私の体験から、今の若者に個人主義より大事なものがあることを伝えたいと思います。
私が自分の存在価値はどこにあるのかと自問したのは中学の頃でした。そのときの結論は、「そもそも私に絶対的な存在価値など無い。存在価値は自分で作り出すものだ。」という物でした。そして、どうやったら自分の存在価値を生み出せるのか、をずっと考えてきました。
社会に出て、何年か経って分かったことは、自分の中に存在価値を求めても何もないということでした。そして、自分の存在価値は自分で作り出すのではなく、他の人たち(家族、友人、社会)が認めてくれて始めて生まれるものなのだということでした(そのための努力は必要ですが) そして人間の価値(個人の尊厳)は、どれだけ自分の幸福を追求しているかではなく、どれだけ多くの人を幸せに出来たかで決まるのだと思います。
私が自分の存在価値はどこにあるのかと自問したのは中学の頃でした。そのときの結論は、「そもそも私に絶対的な存在価値など無い。存在価値は自分で作り出すものだ。」という物でした。そして、どうやったら自分の存在価値を生み出せるのか、をずっと考えてきました。
社会に出て、何年か経って分かったことは、自分の中に存在価値を求めても何もないということでした。そして、自分の存在価値は自分で作り出すのではなく、他の人たち(家族、友人、社会)が認めてくれて始めて生まれるものなのだということでした(そのための努力は必要ですが) そして人間の価値(個人の尊厳)は、どれだけ自分の幸福を追求しているかではなく、どれだけ多くの人を幸せに出来たかで決まるのだと思います。
2012年9月4日火曜日
二重性をもつ言語~自己正当化~
ここで、私たちは改めて「価値の多様化」という状態が「個」を前提とした集団の状態を指すということに気づかなければならない。すなわち、この言語が放たれる場合、「“個”が尊重されるから“価値は多様化”し、それを認めなければ社会は“一様化”されてしまう」という暗黙の警戒心を含んでいるのである。
2012年9月2日日曜日
個人主義は利己主義を正当化しただけ
| 個人史を振り返っても、また最近の社会の流れをみても「個人の尊厳」や「個人が原点」という教育は、結果として「文句言うな、俺の自由だ」「人に迷惑さえかけなければ何をしてもいい」等の、価値観と言うにはあまりにもお粗末なものだけを植えつけたにすぎないのではないかと痛感します。 実際、自由な個人の名のもとで、あらゆる規範や義務はどんどんないがしろにされていくばかり、その崩壊のスピードは目を覆わんばかりです。(そんな状態を作り出した中心は子供や若者達ばかりではなく、戦後教育のもとで育った大人も同様です)。 それは「本来の個人主義ではない」「個人主義の未成熟」などと識者は盛んに弁明していますが、国家と教育者総力を挙げての教育の結果がこうなわけですから、むしろ現況は個人主義教育の必然と捉えなおすべきでしょう。 |
2012年8月31日金曜日
ひとそれぞれという問題
2012年8月29日水曜日
子供の充足と大人の充足(充足の構造)
充足はどのように得られるのでしょう。
最初から型にはまった幸せ(充足)が無い子供達は、自分以外の全ての外的対象(親だけでなく他人も、人だけでなく動物や植物、自然現象さえも)を肯定的に捉えられると思います。好奇心が旺盛なこと、幼い子供ほど誰とでも一緒に楽しもうとすることなどがその証左と思います。
その肯定性があるが故に、対象が何であっても充足対象とすることができるのでしょう。
最初から型にはまった幸せ(充足)が無い子供達は、自分以外の全ての外的対象(親だけでなく他人も、人だけでなく動物や植物、自然現象さえも)を肯定的に捉えられると思います。好奇心が旺盛なこと、幼い子供ほど誰とでも一緒に楽しもうとすることなどがその証左と思います。
その肯定性があるが故に、対象が何であっても充足対象とすることができるのでしょう。
2012年8月27日月曜日
個人を捨てる。もう一つの視点。
私たちは、
「自分のことは自分でしなければならない。」
「自分の身は自分で守らなければならない。」
「人に迷惑を掛けてはいけない。」
「自立しなければならない。」
「自分の行為には責任を取らなければいけない。」
という様々な規範に縛られて生きています。
まず、このあたりの規範を解体していかないと、個人を捨てるのは無理ではないでしょうか。
誰しも、自分が大事に思っている人(好きな人や尊敬する人、信頼している人)が、困っていれば、少しでも役に立ちたいと思いますよね。
そして、相談されたり、頼み事をされれば出来る限りのことをしたいと、少々の無理は厭わないものです。
そんなときは、相手の感謝や笑顔以上の報酬はありません。
でも、自分が困ったとき、人に頼むのは結構、勇気がいるものです。
それが大変なことで有れば有るほど、なかなか言い出しにくいです。
「相談されたり、頼み事をされれば、嬉しい、役に立ちたい。」という気持ちと
「自分のことは自分でする」「人に迷惑を掛けてはいけない」という規範意識、
矛盾していると思いませんか。
個人を捨てるというのは、この古い規範を捨て、新しい規範を作っていくことだと思います。
それは、「周りの人たちに期待し、周りの人たちの期待に応える。」ことを中心に据えて、形成されていくものだと考えています。
玉川泰行
「自分のことは自分でしなければならない。」
「自分の身は自分で守らなければならない。」
「人に迷惑を掛けてはいけない。」
「自立しなければならない。」
「自分の行為には責任を取らなければいけない。」
という様々な規範に縛られて生きています。
まず、このあたりの規範を解体していかないと、個人を捨てるのは無理ではないでしょうか。
誰しも、自分が大事に思っている人(好きな人や尊敬する人、信頼している人)が、困っていれば、少しでも役に立ちたいと思いますよね。
そして、相談されたり、頼み事をされれば出来る限りのことをしたいと、少々の無理は厭わないものです。
そんなときは、相手の感謝や笑顔以上の報酬はありません。
でも、自分が困ったとき、人に頼むのは結構、勇気がいるものです。
それが大変なことで有れば有るほど、なかなか言い出しにくいです。
「相談されたり、頼み事をされれば、嬉しい、役に立ちたい。」という気持ちと
「自分のことは自分でする」「人に迷惑を掛けてはいけない」という規範意識、
矛盾していると思いませんか。
個人を捨てるというのは、この古い規範を捨て、新しい規範を作っていくことだと思います。
それは、「周りの人たちに期待し、周りの人たちの期待に応える。」ことを中心に据えて、形成されていくものだと考えています。
玉川泰行
2012年8月25日土曜日
闘争と生殖の包摂①
(闘争と生殖が分断された空間での子育ての問題性までは共認されたとして一旦話を進めます。)
それを妨げている要因
○家庭を絶対不可侵な領域として守ろうとする意識
→夫々自分が王様で居られる家庭をつくり、好き勝手にやりたい。
他人が家庭の問題に干渉するのも口を出すのもイヤ。
ましてや非難されるなんてとんでもない。
○家庭から圧力を排除しようとする意識
→人の目はしんどい、人の期待はわずらわしい。
課題だなんてもっての他。
成果を求められ客観的に評価されるなんて耐えられない。
○家庭内に囲い込んでおこうとする意識
→家も時間も夫も、自分のものなんだもの。
もらえるものはもらうけど、それを分け与えるなんてイヤだわ。
助けも愛も、いつも自分を最優先してくれるのが当然。
○自分が豊かになればいいという意識
→自分たちの財を増やさなきゃ。便利な方がいいし。
その為には市場社会ももっと効率化して拡大してくれないと困る。
自営業よりは会社に出稼ぎに行ってくれたほうがいいわ。
原因が分かっていながら何故解決に向かわないのか?
「答えが無いのではなく、答えがあるにも関わらず己の都合を優先する」
だからこそ通常の危機状況ではなく、末期現象=滅亡なのではないかと思います。
自己のみを対象(何よりも優先)とし危機を捨象して可能性に収束しなくなったらお終いです。
いくら問題意識を強調し理想や規範を強めようとも、そこの意識に踏み込まない限り、変わらない(変われない)のです。
「親が孤立して子育てしているのがいけない」「公の場での規範教育が必要」と叫ぶ一方で、「プライベートに干渉しないで」「規範を押し付けないで(好きにやらせて)」というエゴを、「個人」「自由」「恋愛」etcで美化して頑なに守っているのですから。
エゴや自己正当化を許容したままの問題解決はできません。それは、今までどれだけその範疇で突破口を探ろうとしても、一向に良い方向に向かわなかった事実からも分かる筈です。
だからこそ、どんなに価値対立が起ころうとも、実現論ではその部分は外せない主要論点なのです。(もちろん、表現・方法etcは今後も改良を重ねてゆく必要があります)
それを妨げている要因
○家庭を絶対不可侵な領域として守ろうとする意識
→夫々自分が王様で居られる家庭をつくり、好き勝手にやりたい。
他人が家庭の問題に干渉するのも口を出すのもイヤ。
ましてや非難されるなんてとんでもない。
○家庭から圧力を排除しようとする意識
→人の目はしんどい、人の期待はわずらわしい。
課題だなんてもっての他。
成果を求められ客観的に評価されるなんて耐えられない。
○家庭内に囲い込んでおこうとする意識
→家も時間も夫も、自分のものなんだもの。
もらえるものはもらうけど、それを分け与えるなんてイヤだわ。
助けも愛も、いつも自分を最優先してくれるのが当然。
○自分が豊かになればいいという意識
→自分たちの財を増やさなきゃ。便利な方がいいし。
その為には市場社会ももっと効率化して拡大してくれないと困る。
自営業よりは会社に出稼ぎに行ってくれたほうがいいわ。
原因が分かっていながら何故解決に向かわないのか?
「答えが無いのではなく、答えがあるにも関わらず己の都合を優先する」
だからこそ通常の危機状況ではなく、末期現象=滅亡なのではないかと思います。
自己のみを対象(何よりも優先)とし危機を捨象して可能性に収束しなくなったらお終いです。
いくら問題意識を強調し理想や規範を強めようとも、そこの意識に踏み込まない限り、変わらない(変われない)のです。
「親が孤立して子育てしているのがいけない」「公の場での規範教育が必要」と叫ぶ一方で、「プライベートに干渉しないで」「規範を押し付けないで(好きにやらせて)」というエゴを、「個人」「自由」「恋愛」etcで美化して頑なに守っているのですから。
エゴや自己正当化を許容したままの問題解決はできません。それは、今までどれだけその範疇で突破口を探ろうとしても、一向に良い方向に向かわなかった事実からも分かる筈です。
だからこそ、どんなに価値対立が起ころうとも、実現論ではその部分は外せない主要論点なのです。(もちろん、表現・方法etcは今後も改良を重ねてゆく必要があります)
| 西知子 |
2012年8月23日木曜日
「自由」の本質は傍若無人
| 「自由」という民主主義世界では疑問もなく使っている言葉だが、その本質は「傍若無人」という意味に他ならない。 つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-date-20111122.htmlより転載します。 ---------------------------------------------------------- かつて日本の国になかった物事が外の国から入り込んでくると、あたらしい言葉をつくらねばならなくなる。明治の世に西欧の思想を輸入するにあたり、新政府は多くの新語を登用した。 この「キライなことば」の連作で綴った「正義」「平和」「健康」などは全てこの新語にあたる。これらの言葉は我が国にはなかった。そのようなものがなくとも充分生きてゆけたのだから必要すらなかった。。病でない者に薬などいらぬのと同じだ。ところが故意に病原菌を撒き散らされた挙句に特効薬を押し付けられたのだ。この妙薬は口には素晴らしく甘いが知らぬ間に体中を蝕む。そして使い出すと止められない。 この新語を世に広めた、あるいは自ら造語したのは森有礼、福沢諭吉、西周(にし あまね)ら、すなわち啓蒙家と呼ばれた知識人たちの結社「明六社」である。彼らの目的は「国民に教育を広め先進国にふさわしく育てる」ことだが、言い換えれば祖先から受け継いだ心を否定し、国民を西欧の鋳型にはめて「改鋳」することだった。西は漢字廃止論者であったし、森に至っては英語を国語とすることを主張していた。 このような結社が新たに造語した言葉は軽妙浮薄であるに留まらず人心をたぶらかす「まやかし」をしたたかに秘めており、日本を呪う怨言であっても日本語などではない。 おりしも我が国に土足で踏み込もうとしているTPPを称して「自由貿易」とよろこぶ世論をみれば、明治の「呪い」がいよいよ身を結ぼうとしているかに思える。 |
2012年8月22日水曜日
官僚・学者が作った学校教育の崩壊とそれを突き破ろうとする教師・父母・地域の動き ③ (長州新聞より)
| ② http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=261896のつづきです 長州新聞『教育運動巡る教師座談会 競争原理破産し蘇る生産原理(http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/kinrouhubodaihyousurukyouikurinenwo.html)2011年7月6日付』より引用 //////////////////以下引用////////////////// ■震災後激変する子供達 親の意識を反映 編集部 今度の大震災で子どもたちを含めた認識の変化がある。自然と人間との関係について、自然界の法則に規制されて人間がおり、人間はその法則を握って自然を改造し社会を発展させてきた。子どもたちの姿勢が変わったといわれるなかには、やっぱり自然があり、社会があって自分たちがいる、自分たちの好き放題ではだめなんだというような実感があるのではないか。また東北の復興の現実のなかに、人間の生活はみんなが協力しあって成り立つんだというのを見ている。この間の新自由主義ではそこが転倒して、すべて自分の好き勝手、もうけ第1で突っ走ってきたが、今「世のため人のため」「社会のため」という世論の転換が起こっている。 |
2012年8月21日火曜日
2012年8月20日月曜日
障害者年金も不正受給の温床に
最近生活保護の不正受給が取り上げられていますが、障害者年金も同様に不正受給がはびこっているようです。
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1530.html#moreより
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本当に困って生活保護を受給する人や、障害者年金がなくては困る障害者やその家族がいる一方で、このような不実がまかりとおっている現状は、改善すべきものと思います。
障害者年金の不正受給がどういうものかというと、うつ病認定を受けることで、障害者年金の二級の認定を受け、最大1610万円の一括受給を得るとともに、最大月額29万円の障害者年金を受け取るというものです。
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1530.html#moreより
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本当に困って生活保護を受給する人や、障害者年金がなくては困る障害者やその家族がいる一方で、このような不実がまかりとおっている現状は、改善すべきものと思います。
障害者年金の不正受給がどういうものかというと、うつ病認定を受けることで、障害者年金の二級の認定を受け、最大1610万円の一括受給を得るとともに、最大月額29万円の障害者年金を受け取るというものです。
2012年8月19日日曜日
モーゼの十戒の騙し
| モーゼがユダヤの民をエジプトから脱出させる途中、シナイ山のふもとで神から啓示を受けたとされる「十戒」は、その後のユダヤ民族に対する厳しい戒めとして、その道徳性の高さを印象づけますが、実態はそうではないようです。 倫理の話http://www.saiton.net/ethics/niga1.htmより引用。 1.私はあなたがたの神である。私以外のものを神としてはならない。「唯一神」 2.像を作ってそれを拝んではならない。「偶像崇拝の禁止」 3.神の名前をみだりに口にしてはならない。「神の名」 4.6日働いたら7日目は祈りのために休め。「安息日(あんそくび)」 5.父と母を敬え。「祖先を敬え」 6.殺してはならない。 7.姦淫してはならない。 8.盗んではならない。 9.嘘の証言をしてはならない。 10.隣人の家をむさぼってはならない。 上記を見ると、すごく道徳観念が高い民族の様に見えます。 しかし、一方、聖典とされる「タルムート」では、まったく異なることが書かれています。 世界の真実の姿を求めて! http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-218.htmlより引用。 ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。 ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。 他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。 ゴイに我らの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイが我らの教説を知ったならば、彼らは公然と我らを殺すだろう。 ゴイが我らの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない。 涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しきなり。 ここでゴイとは「非ユダヤ人」のことを指すそうですが、非ユダヤ人は人間として扱っていないことがわかります。 つまり、先のモーゼの十戒での「盗むなかれ。殺すなかれ。姦淫するなかれ。」などは、すべて同胞であるユダヤ人に対してのみのことであり、一方非ユダヤ人に対しては「騙してもよい。盗んでもよい。殺してもよい。」など、何をしてもよいと言ってるわけです。 一見道徳性が強いユダヤ教も、実はこれほど欺瞞性の高いものであることが分かります。 |
佐藤晴彦
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