2012年9月8日土曜日

「自我=エゴ」を制御するもの

問題の焦点は自我=エゴをどう制御できるかにあります。つまり、どうしたら「各個人が全体の利害を考慮に入れ、全体の欲求と自己の欲求が整合する道を選択」できるようになるかにあります。
また個人主義者も「他人の権利や自由を最大限尊重するのが本来の個人主義」と主張しています。
 
我々がまず追求しなければならないのは、この相手(の自由や権利)を尊重する、言葉を変えれば人間のエゴを抑制し他人と調和しようとする主体側に深く内在するものは何であるのか?ではないでしょうか?
仮にそれが明快になればその中味に立脚して、個体どうし(混同するので敢えて個人という言葉は使いません)あるいは全体が調和するヒントが得られるように思います。


個人主義擁護派の方も含めて多くの方が、現実の人間が自己中心的でエゴの塊であることを認めています。
これがおそらく社会の様々な問題現象を引き起こしていることも直感的に同意できると思います。
だとすればこのエゴを、それこそ綺麗事の理屈でなく、なおかつ強制権力によってでもなく、抑制し調和を図ることが人間には可能なのか?という問題でもあります。
我々人間にその機能が内在しているかどうか、それは何なのか?いわば人間主体をもっと本格的に分析してみようという提起です。 
 
エゴを律するものとして人の目、あるいはお天道さま、あるいは他人を尊重しようとする心、色んな言葉があげられるでしょう。あるいは「人を傷つけてはならない」という意識もそうでしょう。
私はこれらを「規範」あるいは「規範意識」という言葉で括ることが出来るのではないかと思います。(倫理という言葉もありますが規範という言葉の方がやや広い概念なので)
 
つまり、主体に内在する、規範あるいは規範意識が「エゴ」や無軌道に陥ろうとする「自我」を制御しているという関係なのではないかと思います。
 
 他にも成文化されたルールや法もエゴを制御するものの一つですがそれらの土台には、(お天道様という言葉に象徴されるように)、必ずしも明文化されていない、多様な内容を持つ不文律が土台になっています。
 それらも含めて、最も広く括れる言葉としては、「規範」あるいは「規範意識」が今ある言葉の中では最も妥当ではないかと思います。

 規範とは不文律です。認識という言葉を認知機能というところまで拡大したとすれば、認識という言い方も出来ますが、もう少し感情や感覚に関わる言葉として捉える方がいいでしょう。
 そして共通感覚、感覚の共有、相手も同じである(仲間、同朋である)という意識これらが規範意識の土台ではないでしょうか

北村浩司

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