| 「価値観や感じ方、能力はひとそれぞれである」という傾向の意見が結構多いように感じましたので、これについて述べます。 まず、人間は共認機能、観念機能を有しているがゆえに、価値観や感じ方がさまざまであり、組替え可能、つまりは「多様」であることは、客観的にそうであるというだけのことで、それは肯定否定といった次元の問題ではないと思います。 (このことは、第二部で遠山千秋さん、第三部で斎藤裕一さんが説明されてるとおりであると思います。) 私が問題がある(賛成しかねる)と思うのは、「ひとそれぞれ」であることをもって、「それでよし」、と結論付けることについてです。 |
2012年8月31日金曜日
ひとそれぞれという問題
2012年8月29日水曜日
子供の充足と大人の充足(充足の構造)
充足はどのように得られるのでしょう。
最初から型にはまった幸せ(充足)が無い子供達は、自分以外の全ての外的対象(親だけでなく他人も、人だけでなく動物や植物、自然現象さえも)を肯定的に捉えられると思います。好奇心が旺盛なこと、幼い子供ほど誰とでも一緒に楽しもうとすることなどがその証左と思います。
その肯定性があるが故に、対象が何であっても充足対象とすることができるのでしょう。
最初から型にはまった幸せ(充足)が無い子供達は、自分以外の全ての外的対象(親だけでなく他人も、人だけでなく動物や植物、自然現象さえも)を肯定的に捉えられると思います。好奇心が旺盛なこと、幼い子供ほど誰とでも一緒に楽しもうとすることなどがその証左と思います。
その肯定性があるが故に、対象が何であっても充足対象とすることができるのでしょう。
2012年8月27日月曜日
個人を捨てる。もう一つの視点。
私たちは、
「自分のことは自分でしなければならない。」
「自分の身は自分で守らなければならない。」
「人に迷惑を掛けてはいけない。」
「自立しなければならない。」
「自分の行為には責任を取らなければいけない。」
という様々な規範に縛られて生きています。
まず、このあたりの規範を解体していかないと、個人を捨てるのは無理ではないでしょうか。
誰しも、自分が大事に思っている人(好きな人や尊敬する人、信頼している人)が、困っていれば、少しでも役に立ちたいと思いますよね。
そして、相談されたり、頼み事をされれば出来る限りのことをしたいと、少々の無理は厭わないものです。
そんなときは、相手の感謝や笑顔以上の報酬はありません。
でも、自分が困ったとき、人に頼むのは結構、勇気がいるものです。
それが大変なことで有れば有るほど、なかなか言い出しにくいです。
「相談されたり、頼み事をされれば、嬉しい、役に立ちたい。」という気持ちと
「自分のことは自分でする」「人に迷惑を掛けてはいけない」という規範意識、
矛盾していると思いませんか。
個人を捨てるというのは、この古い規範を捨て、新しい規範を作っていくことだと思います。
それは、「周りの人たちに期待し、周りの人たちの期待に応える。」ことを中心に据えて、形成されていくものだと考えています。
玉川泰行
「自分のことは自分でしなければならない。」
「自分の身は自分で守らなければならない。」
「人に迷惑を掛けてはいけない。」
「自立しなければならない。」
「自分の行為には責任を取らなければいけない。」
という様々な規範に縛られて生きています。
まず、このあたりの規範を解体していかないと、個人を捨てるのは無理ではないでしょうか。
誰しも、自分が大事に思っている人(好きな人や尊敬する人、信頼している人)が、困っていれば、少しでも役に立ちたいと思いますよね。
そして、相談されたり、頼み事をされれば出来る限りのことをしたいと、少々の無理は厭わないものです。
そんなときは、相手の感謝や笑顔以上の報酬はありません。
でも、自分が困ったとき、人に頼むのは結構、勇気がいるものです。
それが大変なことで有れば有るほど、なかなか言い出しにくいです。
「相談されたり、頼み事をされれば、嬉しい、役に立ちたい。」という気持ちと
「自分のことは自分でする」「人に迷惑を掛けてはいけない」という規範意識、
矛盾していると思いませんか。
個人を捨てるというのは、この古い規範を捨て、新しい規範を作っていくことだと思います。
それは、「周りの人たちに期待し、周りの人たちの期待に応える。」ことを中心に据えて、形成されていくものだと考えています。
玉川泰行
2012年8月25日土曜日
闘争と生殖の包摂①
(闘争と生殖が分断された空間での子育ての問題性までは共認されたとして一旦話を進めます。)
それを妨げている要因
○家庭を絶対不可侵な領域として守ろうとする意識
→夫々自分が王様で居られる家庭をつくり、好き勝手にやりたい。
他人が家庭の問題に干渉するのも口を出すのもイヤ。
ましてや非難されるなんてとんでもない。
○家庭から圧力を排除しようとする意識
→人の目はしんどい、人の期待はわずらわしい。
課題だなんてもっての他。
成果を求められ客観的に評価されるなんて耐えられない。
○家庭内に囲い込んでおこうとする意識
→家も時間も夫も、自分のものなんだもの。
もらえるものはもらうけど、それを分け与えるなんてイヤだわ。
助けも愛も、いつも自分を最優先してくれるのが当然。
○自分が豊かになればいいという意識
→自分たちの財を増やさなきゃ。便利な方がいいし。
その為には市場社会ももっと効率化して拡大してくれないと困る。
自営業よりは会社に出稼ぎに行ってくれたほうがいいわ。
原因が分かっていながら何故解決に向かわないのか?
「答えが無いのではなく、答えがあるにも関わらず己の都合を優先する」
だからこそ通常の危機状況ではなく、末期現象=滅亡なのではないかと思います。
自己のみを対象(何よりも優先)とし危機を捨象して可能性に収束しなくなったらお終いです。
いくら問題意識を強調し理想や規範を強めようとも、そこの意識に踏み込まない限り、変わらない(変われない)のです。
「親が孤立して子育てしているのがいけない」「公の場での規範教育が必要」と叫ぶ一方で、「プライベートに干渉しないで」「規範を押し付けないで(好きにやらせて)」というエゴを、「個人」「自由」「恋愛」etcで美化して頑なに守っているのですから。
エゴや自己正当化を許容したままの問題解決はできません。それは、今までどれだけその範疇で突破口を探ろうとしても、一向に良い方向に向かわなかった事実からも分かる筈です。
だからこそ、どんなに価値対立が起ころうとも、実現論ではその部分は外せない主要論点なのです。(もちろん、表現・方法etcは今後も改良を重ねてゆく必要があります)
それを妨げている要因
○家庭を絶対不可侵な領域として守ろうとする意識
→夫々自分が王様で居られる家庭をつくり、好き勝手にやりたい。
他人が家庭の問題に干渉するのも口を出すのもイヤ。
ましてや非難されるなんてとんでもない。
○家庭から圧力を排除しようとする意識
→人の目はしんどい、人の期待はわずらわしい。
課題だなんてもっての他。
成果を求められ客観的に評価されるなんて耐えられない。
○家庭内に囲い込んでおこうとする意識
→家も時間も夫も、自分のものなんだもの。
もらえるものはもらうけど、それを分け与えるなんてイヤだわ。
助けも愛も、いつも自分を最優先してくれるのが当然。
○自分が豊かになればいいという意識
→自分たちの財を増やさなきゃ。便利な方がいいし。
その為には市場社会ももっと効率化して拡大してくれないと困る。
自営業よりは会社に出稼ぎに行ってくれたほうがいいわ。
原因が分かっていながら何故解決に向かわないのか?
「答えが無いのではなく、答えがあるにも関わらず己の都合を優先する」
だからこそ通常の危機状況ではなく、末期現象=滅亡なのではないかと思います。
自己のみを対象(何よりも優先)とし危機を捨象して可能性に収束しなくなったらお終いです。
いくら問題意識を強調し理想や規範を強めようとも、そこの意識に踏み込まない限り、変わらない(変われない)のです。
「親が孤立して子育てしているのがいけない」「公の場での規範教育が必要」と叫ぶ一方で、「プライベートに干渉しないで」「規範を押し付けないで(好きにやらせて)」というエゴを、「個人」「自由」「恋愛」etcで美化して頑なに守っているのですから。
エゴや自己正当化を許容したままの問題解決はできません。それは、今までどれだけその範疇で突破口を探ろうとしても、一向に良い方向に向かわなかった事実からも分かる筈です。
だからこそ、どんなに価値対立が起ころうとも、実現論ではその部分は外せない主要論点なのです。(もちろん、表現・方法etcは今後も改良を重ねてゆく必要があります)
| 西知子 |
2012年8月23日木曜日
「自由」の本質は傍若無人
| 「自由」という民主主義世界では疑問もなく使っている言葉だが、その本質は「傍若無人」という意味に他ならない。 つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-date-20111122.htmlより転載します。 ---------------------------------------------------------- かつて日本の国になかった物事が外の国から入り込んでくると、あたらしい言葉をつくらねばならなくなる。明治の世に西欧の思想を輸入するにあたり、新政府は多くの新語を登用した。 この「キライなことば」の連作で綴った「正義」「平和」「健康」などは全てこの新語にあたる。これらの言葉は我が国にはなかった。そのようなものがなくとも充分生きてゆけたのだから必要すらなかった。。病でない者に薬などいらぬのと同じだ。ところが故意に病原菌を撒き散らされた挙句に特効薬を押し付けられたのだ。この妙薬は口には素晴らしく甘いが知らぬ間に体中を蝕む。そして使い出すと止められない。 この新語を世に広めた、あるいは自ら造語したのは森有礼、福沢諭吉、西周(にし あまね)ら、すなわち啓蒙家と呼ばれた知識人たちの結社「明六社」である。彼らの目的は「国民に教育を広め先進国にふさわしく育てる」ことだが、言い換えれば祖先から受け継いだ心を否定し、国民を西欧の鋳型にはめて「改鋳」することだった。西は漢字廃止論者であったし、森に至っては英語を国語とすることを主張していた。 このような結社が新たに造語した言葉は軽妙浮薄であるに留まらず人心をたぶらかす「まやかし」をしたたかに秘めており、日本を呪う怨言であっても日本語などではない。 おりしも我が国に土足で踏み込もうとしているTPPを称して「自由貿易」とよろこぶ世論をみれば、明治の「呪い」がいよいよ身を結ぼうとしているかに思える。 |
2012年8月22日水曜日
官僚・学者が作った学校教育の崩壊とそれを突き破ろうとする教師・父母・地域の動き ③ (長州新聞より)
| ② http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=261896のつづきです 長州新聞『教育運動巡る教師座談会 競争原理破産し蘇る生産原理(http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/kinrouhubodaihyousurukyouikurinenwo.html)2011年7月6日付』より引用 //////////////////以下引用////////////////// ■震災後激変する子供達 親の意識を反映 編集部 今度の大震災で子どもたちを含めた認識の変化がある。自然と人間との関係について、自然界の法則に規制されて人間がおり、人間はその法則を握って自然を改造し社会を発展させてきた。子どもたちの姿勢が変わったといわれるなかには、やっぱり自然があり、社会があって自分たちがいる、自分たちの好き放題ではだめなんだというような実感があるのではないか。また東北の復興の現実のなかに、人間の生活はみんなが協力しあって成り立つんだというのを見ている。この間の新自由主義ではそこが転倒して、すべて自分の好き勝手、もうけ第1で突っ走ってきたが、今「世のため人のため」「社会のため」という世論の転換が起こっている。 |
2012年8月21日火曜日
2012年8月20日月曜日
障害者年金も不正受給の温床に
最近生活保護の不正受給が取り上げられていますが、障害者年金も同様に不正受給がはびこっているようです。
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1530.html#moreより
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本当に困って生活保護を受給する人や、障害者年金がなくては困る障害者やその家族がいる一方で、このような不実がまかりとおっている現状は、改善すべきものと思います。
障害者年金の不正受給がどういうものかというと、うつ病認定を受けることで、障害者年金の二級の認定を受け、最大1610万円の一括受給を得るとともに、最大月額29万円の障害者年金を受け取るというものです。
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1530.html#moreより
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本当に困って生活保護を受給する人や、障害者年金がなくては困る障害者やその家族がいる一方で、このような不実がまかりとおっている現状は、改善すべきものと思います。
障害者年金の不正受給がどういうものかというと、うつ病認定を受けることで、障害者年金の二級の認定を受け、最大1610万円の一括受給を得るとともに、最大月額29万円の障害者年金を受け取るというものです。
2012年8月19日日曜日
モーゼの十戒の騙し
| モーゼがユダヤの民をエジプトから脱出させる途中、シナイ山のふもとで神から啓示を受けたとされる「十戒」は、その後のユダヤ民族に対する厳しい戒めとして、その道徳性の高さを印象づけますが、実態はそうではないようです。 倫理の話http://www.saiton.net/ethics/niga1.htmより引用。 1.私はあなたがたの神である。私以外のものを神としてはならない。「唯一神」 2.像を作ってそれを拝んではならない。「偶像崇拝の禁止」 3.神の名前をみだりに口にしてはならない。「神の名」 4.6日働いたら7日目は祈りのために休め。「安息日(あんそくび)」 5.父と母を敬え。「祖先を敬え」 6.殺してはならない。 7.姦淫してはならない。 8.盗んではならない。 9.嘘の証言をしてはならない。 10.隣人の家をむさぼってはならない。 上記を見ると、すごく道徳観念が高い民族の様に見えます。 しかし、一方、聖典とされる「タルムート」では、まったく異なることが書かれています。 世界の真実の姿を求めて! http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-218.htmlより引用。 ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。 ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。 他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。 ゴイに我らの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイが我らの教説を知ったならば、彼らは公然と我らを殺すだろう。 ゴイが我らの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない。 涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しきなり。 ここでゴイとは「非ユダヤ人」のことを指すそうですが、非ユダヤ人は人間として扱っていないことがわかります。 つまり、先のモーゼの十戒での「盗むなかれ。殺すなかれ。姦淫するなかれ。」などは、すべて同胞であるユダヤ人に対してのみのことであり、一方非ユダヤ人に対しては「騙してもよい。盗んでもよい。殺してもよい。」など、何をしてもよいと言ってるわけです。 一見道徳性が強いユダヤ教も、実はこれほど欺瞞性の高いものであることが分かります。 |
佐藤晴彦
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